「つくる」と「つかう」の考え方

あるものをつかって、足りなければつくって。まちのつかいこなし方の考え方。

もっともっと質感の感じられるリアリティを。

 
ふりかえれば、2016年はメディアの年だったなと思う。地元の様々な媒体、ソトコト、NHKのサキどり↑と、異常なほどテンポよくいろいろなメディアで私のコトを紹介していただいた。それに合わせるようにして、本当にたくさんの場所で「私の考えと実践」をお話する機会に恵まれた。たくさんのフィードバックを得たが、今となっては何か物足りない日々だったようにも思う。
 
さて、2017年。私は仕事を変え、新たな仲間たちとともに大きなビジョンに向けて、小さな議論を積み重ねている。正直なところ、1年前のような派手さは無い。かと言って、やっていることが薄くなっているかというと、そうではない。逆により色濃い日々になっている。言葉を足すならば、1年前以上に「リアリティ」の中にいる。
 
ここ数年Facebookが、様々な年代の人のいくつもの活動を知らせてくれる。元気な人もいれば、切れ味良い出会いを与えてくれる人もいる。ただ、どこか虚しい状況でもある。
ある友達が言った、「あんな道具は過度な自己表現ツールだ」と。
ある友達はこうも言った「さよならを言わなくなる世の中になった」と。
毎日向かう小さな画面の中には、広大な世界が広がっているように勘違いしてしまう。しかしそれはほんとに小さくもろい色眼鏡でしかない。
 
SNSといえば、10代のころに経験したmixiが思い起こされる。毎朝mixiで足跡をチェックし、会わずとも友人の動向を知れることに不思議な魅力を感じていった。この楽しさはずっとあると思っていた。しかし、なにかのタイミングでmixiを見ることはなくなった。Facebookinstagramでもいつか同じことが起こると思っている。たぶん、僕たちはもっと、リアルを求めているように思う。
 
僕はもっともっと温度や質感のあるリアリティとともにいたい。
 
サッカー日本代表の岡崎が評価されたのはオフザボールの動き。
つまり、見えてないところ、言ってないところ、知られてないところでどのように動き続け、経験をため続けるか。たぶん、リアリティはそこにあるのだと思う。
 
いまは影のように動いているが、明らかにそのバネをためている。このバネが開放された時、新しい世界が見える気がしている。