「つくる」と「つかう」の考え方

あるものをつかって、足りなければつくって。まちのつかいこなし方の考え方。

「わかりやすさ」の功罪

2023年は約30件の講演会講師をつとめました。テーマは、地域づくりに関するものが多く、例えば自治会の運営のあり方を市町の連合自治会で話したり、地域づくり協議会のみなさんにそもそも地域づくり協議会がなぜできてきたかを話したり、これからの福祉について民生児童委員のみなさんや地域包括支援センターの専門職のみなさんに話したりと、本来フィールドであった都市計画や建築とは距離のある場にお招きいただくことが増えました。そんな中でできるだけ「わかりやすく」伝えようとしているのですが、はたと、「わかりやすく」することは本当に良いことなんだろうかと思うようになりました。

 

意味の分からない話に意味を見出そうとしていた学生時代

そう思いながら私の学生時代を振り返ると、数え切れないほど建築家のレクチャーを聞いてきました。もちろん自分に知識や経験が伴わない中でひたすら聞くわけですから、何を言っているのかがわからないわけです。ただ、そこで紹介された人や本は講演の後に読んでみて、「こういう意味ではないか?」と仮説を立てたり、わかった気になったりしながら、自分の中で概念や思想が形成されていったように思います。もちろん、建築家の使う言葉はときに意味不明で、ぶっ飛んでることもあるのですが、それでもなおわかろうとする努力はそれぞれがしていたように思います。

 

なんとかしたいなら学ぶ必要があるのでは

自治会や地域づくり協議会のみなさんにお話をして、あとからもらう感想には「わかりやすかった」や「整理された、理解できてよかった」などのコメントが多くあります。極稀に、「うちの実態はこうなっているんだけど、ほんとうにどうしたらいいんだろうか」という相談を持ちかけられることもあります。それがきっかけとなって実際にその地域に入って一緒に活動をはじめることもあります。そんな経験を何度もするうちに「わかりやすかった」というのは本当に良いことなんだろうかと迷い始めています。「わかる」と「実行する」には大きな隔たりがあります。この「わかりやすかった」と言った方は、その後に具体的な行動にはなってないんじゃないかと思うのです。そして「わかりやすかった」という言い方はつまり、講師のことを評価しているとも言えると思ったのです。自分の学生のころと結びつけて考えると、「なんだかモヤモヤする」といった感情になってもらうことが次の行動につながるのではないだろうかとも思うのです。

 

講演会という場は果たして学びの場になるのか

そんな思いを持っていると、そもそも地域づくりについて学ぶ場に講演会というフォーマットが現代の学びの場として適切なのか疑問に思い始めます。コロナ禍を経て、実際に対面できる空間では、お互いに学び合うことが現代の学びとして最適なのではと思いはじめたのです。だからこそ、私がダラダラ話すぐらいなら、その場にいるみんなが適当に話し合ってることのほうが良いと思っています。そこには「わかりやすい」とか「整理される」ことは無いのです。もちろん、講師から話を聞いて新しい知識を知ることもとても大切ですが、それは決して正解ではないわけです。もしかすると本や映像で学べる内容かもしれません。ほんとうに大事なのは映画を見た後にお茶をのみながら感想を話し合って面白がったり、将棋や囲碁感想戦のような場がとても意味があると思います。そうした対話の中から最適解に近づいていく、そんな場こそこれから大切にしていきたいと思っています。

 

もうやっつけの講演会はやめよう

そんな考えでいると、私自身がただ講師として話に行くのはあんまりおもしろくないなと思い始めてしまったのです。「次の行動につながる場になりそうか」や「参加者同士の対話機会をつくれるか」がこれからは大事でしょうし、そういうことを念頭に企画や相談にのっていきたいと思いました。