「つくる」と「つかう」の考え方

あるものをつかって、足りなければつくって、【まちづくり】から【まちつかい】へ。

生まれ育った環境から考える

ソトコト9月号の人がつながる家とまちに特集してもらった。

私の住むコーポラスはりまを「大家族のようなコミュニティ」と表現してあったが、私には大家族で暮らした経験が無い。実家は田舎の1軒屋で、父と母と一人っ子の私というthe核家族の環境で育った。しいて言えば、近くに親戚がたくさんいて隣近所との付き合いが濃密という、村社会の当たり前があった程度。

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今回のソトコト掲載をきっかけに、なんでいろんな人と出会って話すのが好きなんだろうかと考えた。もしかすると、生まれ育った環境がきっかけかもしれない。
 

実家は元民宿

私の家族は、私が生まれるまで民宿を営んでいたようだ。実家には、いまだに「食堂」と名のついた部屋がある。父の実家は今も佐伯旅館という名で、民宿を営んでいる。思い返せば、小学校のころからアルバイトといって、同い年のいとことお客さんの夕食の準備・お運びを手伝っていた。小さな男の子が大きなカニや瓶ビールを大量に運んでくる姿は、微笑ましかったのだろう。こうして知らず知らずのうちに知らない大人と少し話す機会を得ていたのかもしれない。

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 実家の写真。ど田舎もストリートビューで見れてしまう。

食堂が教室に

私が生まれてからは、民宿をやめて母が塾を始めた。かつて「食堂」と呼ばれた部屋は「教室」と呼び名を変え、毎日18:00になれば中学生・高校生が我が家にやってくる。土日や夏休みはお昼から教室にたくさん人がいた。小学校低学年の私は暇があれば教室に行って、中学生に遊んでもらっていた。家の中に、名前の知らない人たちがいるのが普通だった。ちなみに、私が小学校4年生ぐらいまでは玄関の鍵はかかっていなかった。
 

冬はスキー場で知らない人に声をかける

私の故郷は冬になれば、スキー客がたくさんやってくる。小学校の体育の授業は、週に1回のスキー日にまとめられ、毎冬、学校からゼッケンが配られる。そのゼッケンをつけていれば校区内のスキー場のリフトは乗り放題だった。週末は友達と朝から晩までスキーをし続けていた。スキーに飽きた僕たちは、人の良さそうな大人を探す。大人たちもゼッケンをつけたスキーが上手い小学生集団を気にしてくれる。「あの人ならイケる!」と思った人に声をかけてジュースをおごってもらう。今思えば勇気のある子供たちだなと思う。冬の週末はそんな風にして過ごしながら、知らない人と話す方法を少しづつ知っていったのかもしれない。

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冬:小学校への通学路

15歳から下宿

15歳の私は実家を離れて進学することを決めた。進学先では寮生活が待っていた。友達も知り合いもほとんどいない。わかることがほとんどない。そんな中で必死になって、人とコミュニケーションを取ることに慣れていった。気づけば毎日クラスメイトにしか会わない日々に退屈さを感じて、「学外に友達をつくる」ことをはじめた。結果、17歳でDJを始めた。すると、今まであったこと無い人達に大量に会えた。そこでも手を変え品を変え、仲良くなろうとしてみる。そんなことを繰り返しているうちに人と会って話すことがおもしろいことだと気づけた。大学・大学院でも「学外に友達をつくる」とか「分野の違う友達をつくる」事が、なんとなく大事なことだろうと思っていた。
 
それは10年経った今でも変わらない。いまも私がそう思えているのは、そんな生まれ育った環境に影響を受けているのだろう。
 
驚くことに、父は本業の傍ら、山小屋と呼ばれる工房を持ち、週末には本格的な木工家具を作っていた。母は今も中高生を集めた塾を開いている。私はというと、いろんな空き家・空き店舗のDIYリノベーションに関わりながら、教育機関で働いている。不思議な偶然。たった15年間しか同居しなかったが、多大なる影響を受けていそうだ。血は争えない。

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父のつくった椅子