「つくる」と「つかう」の考え方

あるものをつかって、足りなければつくって。まちのつかいこなし方の考え方。

取るに足らないまちづくりの話 #001 「なぜつくるとつかうか」

取るに足らないまちづくりの話 #001

 ここ数年、団地再生、まちづくり、DIYなどのキーワードで毎月色んな所にお邪魔してしたり、いろんな方にお会いする。
最近は実践を繰り返す日々で、言語化することをサボっていたので、”取るに足らないまちづくりの話”として、なぜ佐伯がこんなことになっているのか、佐伯の課題意識はどこにあるのか、佐伯はなにを目指しているのかなどなど綴っていこうと思う。

”建築”への違和感

 2011年、山崎亮が「コミュニティデザイン」という言葉を引っさげて本を出版し、情熱大陸に出ていた。当時のわたしは、修士1年、まわりのメラメラした友人とともに。建築家を夢見て、毎日を必死になって過ごしていた。「コミュニティデザイナー?なんやそれ」と斜に構えながら情熱大陸で見た。そこには丸坊主の兄ちゃんがニコニコしながら話している。当時、わたしが知っている建築家像とはまるで違う人だった。同じ”コミュニティ”という言葉を扱っているにも関わらず、そのふるまいは全く異なっていた。「ま、そんなやり方もあるけど、だからなに?」ぐらいの感覚だったように思う。

 時を同じくして、わたしは大学近くの洪福寺松原商店街のプロジェクトに参加することになる。かわいがってくれていた先輩が声をかけてくれたのがきっかけだ。商店街でイベントを企画したり、おっちゃんたちと話すほどに山崎亮がやっていたことが実感としてわかってきた。と同時にわたしの知っている"建築”への違和感を感じ始めた。ちょうど修士2年になる頃だったと思う。

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松原商店街。ここに関わってから考え方がまるで変わったように思う。

 

 そこから、地域社会圏研究会や、いくつかのまちづくりのプロジェクトに関わる中で、これからはつくること以上につかうことが大切なのでは?と思うようになる。2013年のこと。

"つくるとつかう"

 ちょうどその頃、松村秀一先生が「建築―新しい仕事のかたち―箱の産業から場の産業へ 」を出版していた。 

建築―新しい仕事のかたち―箱の産業から場の産業へ

建築―新しい仕事のかたち―箱の産業から場の産業へ

 

 当時”建築”や”新しい仕事”に飽き始めていたわたしは知っていたものの、読むことはなかった(後々、しっかり読み、いたく共感した)。本の中には「利用の構想力」という言葉が出てくる。まさに今あるもの、今ある空気をいかに読み取って展開させるか。えらく納得した。そこから、このブログや個人ページで使っている「つくるとつかう」というスローガンを掲げている。これは、「常につくることとつかうことの間で思考しなさい」という自分へのメッセージである。建築家を夢見ていたはずが、まちに出て、たくさんの気付きとともに、今では自治会組織の支援を仕事にしている。でもそれは連続していて、つくること、つかうことを束ねていくのは地域のそんな組織のあり方なんだろうと思っている。

 

 つくるとつかう。”取るに足らないまちづくりの話”として、これからもとるに足らないけれど、どこかの誰かに知っていてほしい話を書きつづけてみようと思う。

もっともっと質感の感じられるリアリティを。

 
ふりかえれば、2016年はメディアの年だったなと思う。地元の様々な媒体、ソトコト、NHKのサキどり↑と、異常なほどテンポよくいろいろなメディアで私のコトを紹介していただいた。それに合わせるようにして、本当にたくさんの場所で「私の考えと実践」をお話する機会に恵まれた。たくさんのフィードバックを得たが、今となっては何か物足りない日々だったようにも思う。
 
さて、2017年。私は仕事を変え、新たな仲間たちとともに大きなビジョンに向けて、小さな議論を積み重ねている。正直なところ、1年前のような派手さは無い。かと言って、やっていることが薄くなっているかというと、そうではない。逆により色濃い日々になっている。言葉を足すならば、1年前以上に「リアリティ」の中にいる。
 
ここ数年Facebookが、様々な年代の人のいくつもの活動を知らせてくれる。元気な人もいれば、切れ味良い出会いを与えてくれる人もいる。ただ、どこか虚しい状況でもある。
ある友達が言った、「あんな道具は過度な自己表現ツールだ」と。
ある友達はこうも言った「さよならを言わなくなる世の中になった」と。
毎日向かう小さな画面の中には、広大な世界が広がっているように勘違いしてしまう。しかしそれはほんとに小さくもろい色眼鏡でしかない。
 
SNSといえば、10代のころに経験したmixiが思い起こされる。毎朝mixiで足跡をチェックし、会わずとも友人の動向を知れることに不思議な魅力を感じていった。この楽しさはずっとあると思っていた。しかし、なにかのタイミングでmixiを見ることはなくなった。Facebookinstagramでもいつか同じことが起こると思っている。たぶん、僕たちはもっと、リアルを求めているように思う。
 
僕はもっともっと温度や質感のあるリアリティとともにいたい。
 
サッカー日本代表の岡崎が評価されたのはオフザボールの動き。
つまり、見えてないところ、言ってないところ、知られてないところでどのように動き続け、経験をため続けるか。たぶん、リアリティはそこにあるのだと思う。
 
いまは影のように動いているが、明らかにそのバネをためている。このバネが開放された時、新しい世界が見える気がしている。